「達哉っ」
兄さんが弾かれたようにパオフゥさんを押しのけ、前に出てきた。
視線を受け止めたくなかったが、俺より身長の高い兄を見上げるように見た。
・・・何て顔をしてるんだろう。
必死に訴えかける眼差し。いつもの「大人」の兄さんとも思えないほどおろたえているのがはっきりとわかる。
「お前は僕の弟だ。『向こう側』の達哉でもそれは変わらないんだ」
必死に言葉を紡ぐ兄さんを見て、俺は言葉もなく立ちすくむ。
兄さんが俺という存在を受け止めてくれているのはわかった。認めてくれているのも。
とても嬉しく思うが、それを素直に受け入れる事は出来なかった。
罪悪感。
優しくしないでくれ。
罪にまみれて汚れた俺を認めないでくれ。
そんな資格はあるわけがない。安らぎを求めてはダメだ。
許されてはだめなんだ・・・・!!!
「だから・・・帰ろう」
「帰らない」
兄の視線を受け止める事が辛くなってきた。見ていられなくて、うつむく。
「・・・あそこは・・俺の家じゃない」
うめくような声が聞こえた。ほら、また傷つけた。
優しく差しのばされた腕を突っ返したのは何度目だろう?
そのたびに傷ついたように言いよどむ兄の姿に、改めて罪の深さを思い知る。
ーーカエリタイ。
帰りたい、あの家に。そして何も考えずにベットの上で眠りたい。
だけど。
『忘れたくない』
罪の声に心臓を鷲掴みされるような衝撃とともに、甘えた考えを振り切る。
これは罰なのだ。罪は償わなければならない・・そう、これも罰なのだ。
「達哉・・・」
兄さんが俺の肩をふいに掴むと勢いよく引き寄せた。兄さんの腕の中でしばし呆然とする。
まるで言葉に出来ない想いを伝えようとするように、きつく抱きしめられる。
思わぬ温かさに身動きが出来ない。
「なぁ、達哉」
ふいに兄さんに押しのけられたまま、半ばあきれたように煙草を吹かして傍観を決め込んでいたパオフゥさんが、煙草の煙をため息とともに吐き出してから、声をかけてきた。
横目でちらりと彼を見る。
「さっきの返事だがよ、俺は別にかまわねぇぜ?」
「・・・!」
無言で兄さんが顔を上げた。気のせいか抱きしめる腕の力が強まったように思える。
苦しい体制から無理矢理見上げて見るが、兄の表情は見えない。
「おいおい、周防。そうにらむなよ」
パオフゥさんは軽く肩をすくめると、煙草を足下へ放り捨てる。
「俺が言いたいのはだ。達哉、お前にとっては俺も所詮は他人にすぎない言うことだ」
「・・・・・」
「他人の家でも構わないなら、周防の家でも構わんだろうて、なぁ?」
・・・そう言えば仲間になったときもこんな感じだった気がする。「物は言い様」とはよく言ったもので、屁理屈もここまで堂々としてるといっそ清々しい。
「ま、それに俺のヤサはトリフネ浮上で壊れちまった。仕方ねぇから帰るのは狭いボロ部屋だがな」
で、どうする?と目で問われる。
兄さんは何も言わない。ただ、抱きしめているだけで言葉よりも雄弁に語りかける。
腕の中は温かくて、心の武装を溶かし始める。
思えば兄さんとこうして話すことも、こうして触れ合うことも、父さんの事が合って以来だと気が付いた。それはどちらの世界も変わりはなく、俺の中の「達哉」も同じように戸惑っているみたいだった。
顔を押しつけている兄の服からかすかに甘い匂いがして、何だかおかしくなった。
そういえば、「向こう側」の兄さんは毎朝早く起きてはおやつを作って出勤していた。びしっとのりのきいた背広を着込んでその上から猫模様のエプロンを羽織って鼻歌混じりに楽しそうに作るのだ。どちらかというと甘い物はそれ程好きではない俺は、朝から食卓に並ぶケーキやクッキーに胃がむかつくのを押さえながら、黙ってご飯とみそ汁と目玉焼きを素早く胃に収め何も言わずに席を立って兄に小言を言われるといった毎日だった。
「・・・・わかったから、離してくれ」
思いだし笑いを抑えながら、そう言うと、兄さんはようやく腕を放してくれた。
「帰るんだな?」
解放したとたん、間髪入れずに言葉をなげかける。
帰らないと言っても手錠で繋がれて連れて行かれそうな響きを含んでいた。
「・・・・あぁ」
根負けしてそう答えると、端から見ても嬉しそうに微笑むとパオフゥさんに得意げに、
「と、言うわけだ。独りで寂しいようならお前も来ても構わないが?」と言った。
「へっ、ブラコンめ」
呆れたように鼻で笑って、くるりと方向転換し「せいぜい仲良くな」と後ろ手にひらひらと手を振って歩いていった。
「僕たちも帰るか」
パオフゥの後ろ姿を見送って、兄さんは何だか照れくさそうにちらりと俺を見て歩き出した。
確かに、兄弟揃って帰路に付くのは小学生以来なように思える。子供の頃はよく兄さんが迎えに来ていて、よく一緒に帰ったものだ。懐かしさとどこか照れくささを感じながら先を行く兄さんの後を歩き出した。
まだ違和感はあるにはある。
あの家は「こちら側」の家であって、俺の家ではない・・・と。
だけど・・・。
『帰ろうか』
いつか舞耶姉が言っていた。
帰る家は人が居てからこそ家なのだと。待つ人が一人でも居るのならそれは「帰る家」なのだ、と。
兄さんは意識せずに「帰ろう」と言う。
違和感を超越して、手をさしのべてくる。きっと逃げ出しても強引に捕まえられるだろう。
本当は帰りたかった。
独りで戦って疲れ果てたときに、無意識のうちに帰路についたこともある。あと少し踏み込めば入れたのに、
手前で動けなくなった。
カエリタイ、そう思っても自分の中のどこかで「帰れない」と声がする。
この世界に本当は俺の居場所なんて無いのだ、と。
走り続け戦い続ける事しか許されていない、と。
そう今も思ってる・・・・だが、兄さんはすべてを乗り越えて温かさをくれる。
すがりつけない、すがりついてはダメだと声がする。優しさに甘えるな、と。
いくら拒絶しても、いくら傷つける言葉を放っても、兄さんは力強くうなづく。
あまりのしつこさに、流されてもいいか・・・・と、兄さんの背中を見て思った。
夕日が明るく「家」を照らしている。家が見えてきたところで兄さんはふと足を止めた。不思議そうに見つめると、舞耶姉さん達には見せたことがない表情を浮かべて、
「家までダッシュだ。遅れた方が風呂を洗う係だ!」と子供のような事を誇らしげに宣言すると、言ったもの勝ちというように、走り出した。
めんどくさいことが嫌いな俺も慌てて後を追う。
あっけなく抜かしてたどり着いた玄関の前で、呼吸を整えながら家を見上げた。
「く・・・・まっ・・」
「ま?」
声が聞こえて兄さんを振り向く。兄さんは前屈みになり息も荒く酸素を肺に送り込もうとあえいでいた。
「負けたなっ・・・くそ・・・やっぱり歳なのか・・」
やがて100メートル以上の猛烈ダッシュに汗ばんだらしく、ネクタイをゆるめると手で風を仰いだ。
まさか勝つつもりだったのか、この兄は。
何だか微笑ましくて、声をたてて笑いだした。何だか久しぶりに自分、笑っている気がする。
兄さんは憮然として「笑うんじゃない、達哉!」と顔を赤くしている。
やがて気を取り直したのかポケットから鍵を取り出し、ドアを開く。
先に「ただいま」と無人の家に呼びかける兄さんを見て、笑いのつぼにはまってしまった俺は玄関前でしばらくまるで今までの分を取り戻そうかと言うように笑い、涙目になりながら家に入り込んだ。
玄関で笑いが納まって、しばらく落ち着くのを待つ。
そして覚悟を決めていた家に上がり込むと・・。
俺の笑いに呆れたように、でも嬉しそうに苦笑いをしている兄さんが
「おかえり」を何でもなさそうに声をかけた。
「ただいま」と答える。
あれ程抵抗があった家なのに、慣れた空気にほっとする。
周囲の空気を吸い込むと少しだけ小さく「ただいま」と呟いた。
<END>