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プロフェッサーが怒っているときに、絶対にしてはいけないことは、口を利くことだ。
彼女は言い訳を嫌うし、何より口答えされるのを嫌う。
彼女が怒りをぶつけ終わるまで、貝のように口を閉ざして、石のように固くなって、小さく小さく丸まっていること。それが最善だ。
大丈夫。気が済んだら彼女は部屋を出ていく。泣くのは一人になってからだ。
そうでなければ、彼女の怒りに油を注いでしまうからだ。
彼女は僕の泣き声を嫌う。
耐えるんだ。
ただ、じっと。

耐えるんだ。

守るべきもの
作者・梅里きのこ様

「九チャン、マフィンあげる!!」
昨日の探索で寝不足だった九龍は、2時間目の体育で倒れて3、4時間目を保健室で過ごした。3、4時間目は九龍の大好きな調理実習だったようで、みんなの手には焼きたてで甘い香りが漂うマフィンがあった。
よだれを垂らしそうな様子で、九龍がみんなを羨ましげに見ていたので、八千穂は優しく声を掛けて自分の分を分けて上げたのだった。
「わー、やっちありがとっ!!おいしー匂いだねー」
手のひらで大事そうにマフィンを掴むと、九龍は幸せそうに匂いを吸い込んだ。
「ふふー、今日は上手くできたんだ!食べて食べて!!」
「えへへー、いただきますっ!」
ふかふかのマフィンを半分に割ると、片方にがぶりとかじり付いて、九龍は目を輝かせた。もぐもぐと夢中で噛み、ごくりと飲み込むと満面の笑みを浮かべる。
「おいしーっ!!ほっぺた飛んでっちゃうよっ」
 料理の苦手な八千穂の作品は当たり外れが大きいが、今日のマフィンは大当たりだったのだ。バターの風味とオレンジの香りが溶け合い、ふんわりと柔らかかつしっとりとした口触りが絶妙だった。
「でしょ、でしょ!九チャンに食べさせて上げようと思って、頑張ったんだー!」
「おいしー、しわあせー…ありがと、やっちー!」
うっとりと微笑みながら半分を食べると、九龍は残りの半分に手を伸ばしてふと考え込んだ。八千穂が不思議に思って、
「どうしたの?食べないの?」
と、尋ねると、九龍はじゅるっとよだれを飲み込んで首を振った。
「こーちゃんに、あげるっ!」
「皆守クンに?」
「うんっ!とってもおいしーでしわあせだから、こーちゃんにもあげる!」
「そっか…」
八千穂は九龍の気持ちに感激し、潤んだ瞳をごまかすように大きく笑った。
「へへっ、皆守クン喜ぶと良いねっ」
「うん!」
わくわくしながら頷くと、九龍は大事なマフィンをテッシュで丁寧に包んだ。


九龍の付き添いという名目で保健室にいた皆守は、休憩時間になっても起きなかったのでそのままそっとしておいた。たぶんまだベッドで眠っているのだろうと思い、九龍は階段を慎重に降りた。マフィンを両手で捧げ持っているので、手摺りに掴まれないのだ。
「マヒン、マヒン、おいしーマヒンっ」
段を降りるリズムに合わせて歌いながら何とか一階に辿り着くと、九龍は渡り廊下にさしかかった。

そこに、5人の男子がたむろしていた。
彼等は3−Dに所属する、少し問題のあるグループだった。
<生徒会>の手前、表立って大きな騒ぎを起こすことはないが、影に隠れて下級生を揺すったりと陰湿な悪さをしていた。
そんな彼等が最近面白くないと思っていることがひとつあった。
「マヒンー、マヒンー」
低い声で何かを囁き合っていた彼等は、階段の方から聞こえてくる呑気な鼻歌に顔を顰めた。見れば、異常に小さい男子生徒が白い包みを持った両手を前に突き出して、とことこと歩いてくるところだった。
「おい、アレだぜ」
リーダー格の少年が言うと、仲間達が鼻で笑った。
彼等にとって今最も不愉快なもの。それは転校生の葉佩九龍だった。
異常に小さい体で舌足らずな幼児言葉をしゃべり、誰にでも笑顔を振りまいては媚びを売っている転校生が、気にくわないのだった。たった2月足らずで學園中の人気者になり、ちやほやともてはやされているが、彼等にしてみれば転校生はただの計算高い鼻持ちならないエセ幼児だった。
こちらには気づきもせずにとことこ歩くちびっ子をさっと取り囲むと、ちびっ子は急に現れた5人に目をパチクリさせた。
「なーにー?」
「ナーニぃー?」
ちびっ子転校生の九龍が首を傾げて尋ねると、髪を脱色した少年が大げさに体ごと傾げていやらしく物真似をした。他のメンバーがさざめくように笑う。
「おい、ちびすけ。何処に行くんだ」
リーダーが腰をかがめて煙草臭い息を九龍の顔に吐きつけながら聞いた。
「ほけんしつだよ」
素直に応えた九龍の言葉を、さっきの脱色した髪の少年がまた真似る。
「ほけぇんしつだよぉ?」
先程よりも大きな笑い声がメンバーの間で起こった。
九龍は困惑して少年達を見上げた。
「なーに、何かご用?僕、急いでるの」
「ぼくぅ、いそいでるのぉー」
げらげらと笑われて、九龍は落ち着かなくなった。
「用がないなら、僕行くね」
大事なマフィンを胸に抱え込んで、前に立つ2人の間を駆け抜けようとすると、突然リーダーの足が降り上がって九龍の顔を蹴った。
「わうっ」
悲鳴を上げてひっくり返った九龍は、それでもマフィンを手放さなかった。小さな腹の上に、汚い上履きの足が載った。
「何だ、テメェは。馬鹿じゃねえの?」
リーダーが心底不愉快そうに顔を歪めて九龍の額に唾を吐いた。
「ガキみたいな口利きやがって、甘ったれた声出しやがってよ」
九龍の腹に載った足に徐々に体重を掛けながらぐりぐりと踏みにじる。九龍は腹筋に力を入れて抵抗したが、何も言わなかった。
「あれか?女にちやほやされたいから赤ちゃんのふりしてんのか?」
後ろに立っていた3人の内、でっぷり太った少年が九龍の髪を踏みつけて引っ張りながら小馬鹿にして言う。
「違うよなぁ、脳味噌までミニミニサイズだから、言葉が分かんないんだよなぁ」
そばかすだらけの少年が、九龍の右肩を踏みつけた。
「幼児プレイが趣味の変態なんだよなー?」
甲高い声の少年が、九龍の左耳を踏んづけて笑った。
「ママァ、おなかしゅきまちたー、おっぱいがほしいでしゅぅ」
その一言にどっとメンバーが笑い、それぞれの足に容赦なく力がこもる。九龍はくっと唇を噛みしめて痛みを堪えた。
「…おい、何か言えよ」
リーダーが爪先で九龍の顎を持ち上げた。
九龍はぎゅっと唇を結んで何も言わなかったし、目も瞑ったままだった。
「か弱い振りしてんじゃねえよ、テメェ真里野にヤキ入れたんだろ?」
その噂は全校に広まっていた。そして最近では、剣道部の間で転校生を師匠と呼び慕うようになっていた。それほどの腕前を持っているとの話だったが、今目の前にいる転校生は無抵抗で、おまけにぶるぶる震えていた。
「やっぱガセかよ。こんなのが真里野に勝つわけねえもんな」
「おう」
「おい、テメェ、目障りなんだよ!とっとと死ね!!」
ふとっちょが、噛んでいたガムを吐き出して九龍の髪に張り付けた。
「お前ビョーキなんだってな?気持ちワリイから外に出てくんなよ。うつるだろ?」
「俺らもこびとサンになっちまったら嫌だもんなー」
「あ、でもよー、こいつの真似して周りに貢がせんのも良くねえ?」
「ぼくはぁ、くましゃんがしゅきでしゅぅ。くましゃんのぬいぐるみがほちいなぁー」
脱色少年の言葉でみんなが大笑いし、どかどかと九龍を蹴りつけ始める合図となった。
九龍の小さな体は余すところ泣く踏みにじられ、顔や頭まで容赦なく蹴られた。
少年達はさんざんいたぶっても泣きも喚きもせず、人形のように転がるだけの九龍にしらけ、行こうぜとリーダーが言うと鼻を鳴らしながら去っていった。


九龍はぶるぶる震える手を床について、何とか起き上がった。
鼻から血が流れ出し、右目は瞼が腫れて良く見えなかった。制服はドロドロに汚れて足跡だらけだ。
だけど、そんなことはどうでも良かった。
「…」
九龍は、踏んづけられてぺしゃんこになり、ぼろぼろに砕け散ったマフィンをみつめた。
「…やっち、ごめんなさい」
ぽろぽろ溢れる涙を袖で拭いながら、九龍は屑も残さずに拾い集めると、ポケットから出した新しいティッシュにくるんだ。
少年達にいたぶられる間、九龍の目に映っていたのは彼等の姿ではなかった。
長い黒髪を振り乱し、目を血走らせて唾を散らして怒鳴り散らす女性の姿だった。
龍をあしらった指輪をはめたままの指で拳を握り、思い切り殴りつけてくる、彼女の姿だった。

口を利いてはいけない。
逆らってはいけない。
耐えるんだ。

ただそれだけを考えていた。

マフィンは、ただのカスになってしまった。
「こーちゃん…食べれれない」
八千穂が自分ために作ってくれたマフィン。
あんなに美味しかったマフィン。
きっと、皆守だって美味しいと言って笑ってくれただろう。
それなのに。
「僕が、悪いだから」
嫌われ者だから。
マフィンは粉々になってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいー…」
九龍は申し訳なさと悲しさで体を縮こまらせながら、泣きじゃくり始めた。



「ん…?」
いつまで寝ているのだと校医に追い出され、保健室を出た皆守は、九龍を昼食に連れていくため迎えに行こうとしていた。
廊下を歩きだしたとたん、子供が泣きじゃくる声が聞こえてきて顔を顰めた。
「九ちゃんか…?」
心配になって声が聞こえる渡り廊下の方へ走っていくと、渡り廊下のはじっこにへたりこんで泣いている九龍を見つけた。
「おい、九ちゃん!どうしたんだ?」
駆け寄って良く見ると、九龍はあちこちケガをして、鼻血が流れているし瞼が切れて腫れ上がっているし、髪はぐちゃぐちゃでガムが絡まり、制服は足跡と埃にまみれていた。
「…おい、大丈夫か?」
ごめんなさいと繰り返して泣きじゃくるばかりの九龍をぎゅっと抱きしめ、皆守はぎりぎりと歯を食いしばった。
何があったか、大体の予想は付いた。

 許せないと思った。

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